三月一日(水)

歴史という物は、その時々の文化・社会・政治・等々に、歴史をしるす者が影響を受けたり、しるす者の思想・信条・能力・等々によって異なるものということがわかった。

さらに、人類共通の歴史という物は、どうも無くて、国家・民族・種族・等々によって異なる。従って、多数が共通認識している歴史という物はあるが、それが事実に則っているか、正しい歴史認識なのかは、個々それぞれの生き方、考え方などによって、異なって来る。

ある国・民族・種族・等々の歴史について、それに属さない輩が、あれこれ言うことは出来ても、それについて訂正を求めたり、批判はしたとしても自らの考えを押しつけることは出来ない。第一、他人が申し立てる歴史は、その物が属する国家・民族・種族・等々が認識している歴史であって、これもまた事実に則っているかは、他者から見れば間違った認識であるということになるかもしれない。

要するに、歴史というものは、事実に必ずしも則っているものではないと考えられ、その認識については、国・民族・種族・等々によって異なって当然と考えられる。

他者を責める、攻めることは簡単なのだが、それが果たして信頼性・妥当性・客観性・普遍性・等々のある言い分なのか、一方的なものは、「何か変?」という、不自然さがつきまとうものに思われて仕方がない。

自分が教わって来た歴史というものが、現在では間違っていると考えられる史実がかなりあり、同じ国でも時の流れ、新たな歴史を刻まれることによって、史実が改められることは多々あるようだ。

歴史は、永久不変では無くて、その時々に、訂正、修正、発見、改変され得るものであるということのようだ。